蘭郁二郎

 大村は苦笑すると、英二と一緒におもてに出た。
 秋空に浮くちぎれ雲が、午後の陽に透けて光っていた。
 火星観測――などというと、いかにも錚々たる天文学者の一行のように聞こえるけれど、実は大村昌作はサラリーマンなのだ。只のサラリーマンには違いないが、それでも会社の中で同好の者たちで作っている『星の会』の幹事ではあるし、特に『火星』という奴には人一倍の興味と関心を持っている――つまり素人天文家をもって自ら任じているのである。だから、たまたま今度の休暇に、丁度火星が十五年ぶりで地球に近づくというので、従弟の英二を誘って、かねて文通から知り合いになった私設天文台のあるこの高原に、骨休みかたがたやって来たわけであった。
「とにかく火星のことになると夢中なんだからなあ、昌作さんは」
「いいじゃないか」
「いいですよ、とてもいい趣味ですけど――」
「ですけどとはなんだい、妙ないい方だね」
「そんなことないですよ、――それはそうと、どんなキッカケから昌作さんは火星狂になったんですか」
「火星狂――? そんな言葉があるかね、狂は少しひどいぞ」
「おこっちゃいけませんよ、狂といったっていい意味です、その野球狂とか飛行狂とか――つまりファンですね」
「こいつ、うまく逃げたな、まあいいさ、何んだって興味を持てば持つほど面白くなって来るんだ、たとえば火星という奴は、あんなに沢山星のあるなかで一際赤く光っている。ぼくも最初に興味をもったのはこの事かな」
「今でもですか」

 ところが、この気息奄々たる雑誌に活を入れる大変化が起った、というのは誌名を「シュピオ」と改題し、海野十三、小栗虫太郎、木々高太郎の三氏が、その改題第一号たる昨年の一月号に「宣言」として発表された意味で協力されることになったのだ。勿論、探偵文学同人は解散し、探文は解消してしまったのであるが、手続上の理由から探文の改題ということにしただけで、新生「シュピオ」は精神的にも物質的にも挙げて共同編集者の手腕に委ねられたのであった。
「シュピオ」は逐次、号を追て「宣言」にあるような理想の実現を冀図しつつあった。が、たまたまこの頃に前後して「月刊探偵」「ぷろふいる」「探偵春秋」等の僚誌が相継いで影をひそめ、探偵小説専門の月刊誌は本誌が唯一つのものとなってしまった。その中にあってシュピオは昨年の五月号を木々氏の直木賞記念号とし、探偵小説界最初の年鑑ともいうような二百三十余頁の尨大号を出すなど、大いに意気の程を示したのであるが、折柄勃発した支那事変に鑑み逸早く紙面を引締め、御承知の如き持久体制に這入っていたのである。

 行くにつれて、何時しか小径は木立の間に消え失せ、地肌という地肌は、降りつもった朽葉にすっかり覆われてしまっていて、未だかつて人類などというものが踏んだこともないように、ふかふかと足を吸い込んでしまう始末だった。
 しかし川島は、その実あまり弱ってもいなかった。少々ぐらいの道の迷いやそれについての苦労ならば、却って後までもハッキリした思い出になってくれるものである。バスで素通りしたところよりも、靴の底が口をあけてしまって藁で縛り乍ら引ずって歩いたところの方が、寧ろあとでは愉しい道なのだ。殊に暦の上の秋は来ても、この南国紀伊の徒歩旅行では、たとえ道に迷わなくとも野宿の一晩ぐらいはするつもりでいたのだ。リュックサックにも、その位の用意はしてある。
 だから川島は、いくら道に迷っても、自分自身を遭難者だとは思っていなかった。舌打ちしながらも、何処か心の隅では
(到頭迷ってしまったぞ――)
 といったような、期待めいた感じすら持っていたのだった。