蘭郁二郎その2

 あたりは、防音室の中にいるように、物静かだった。たまに立止って、どちらへ進もうかと木立の繁みのなかを見廻すのだが、そんな時でも稀に名も知らぬ小鳥が奇妙な喘き声をするのを耳にとらえるくらいのもので、蝉の声すらもまったく聴えなかった。あたりに鬱蒼と立罩める松、杉、櫟、桜、そのほか様々な木々は、それぞれに思いのままに幹を伸ばし、枝を張り、葉をつけて空を覆っていた。その逞しさは、尠くとも都会の街路樹などとは比べものにならぬ水々しい樹肌を持ってい、而も思い思いの木の体臭を振撒いていた。
 だが、川島のこの舌打ちの出る愉しい遭難は、二時間たらずで終りが見えたように思われた。
 というのは、相当に急な崖を下りはじめると、木の間もれに、向うからも崖が迫っているのが見え、そして、その下の方に光った水が見えはじめたからである。若しそれが渓流ならば、それに従って下って行けば自然に人家のあるところに出られるのは、山道を歩く場合の殆んど常識といってもよかったからである。
 川島は、深山幽谷のつもりで跋渉して来たところが、突然、お屋敷の裏庭に飛出してしまった時のような、むしろ飽気なさを覚えながら、下って行った。しかし、間もなくその光っているのは水ではあるが、流れではないのに気がついた。視界が広まるにつれて、その水の面も亦広がって行くのだ。

 黒住と私とは二代続きの、おやじから受けついだ交友であった。彼の父が家に遊びに来た時など、いつも彼の変屈を心痛して、
『春ちゃん、箒吉はアンナ風だけれど、よろしくお願いしますよ……時々お遊びに来て下さい――』
 と、いかにも父親一人の家庭らしい、優しい、思いやりのある言葉で、私を誘ってくれた顔を、フト思い出すのである。
 いまは、もう彼の父も、私の父も既に亡くなってしまって、第二代目の交友に引つがれてしまった。そして時々私は箒吉のことを偲い出す度に、手紙のやりとりなどして、死んだ彼の父に、お義理の端を済ませていたのだが。――
 彼は、なかなか自分から私に呼びかける男ではなかったけれど、私の出す手紙には、きっと、木霊のように、返事を寄来すのだった、彼もたしかに寂しいには違いない、彼も決して悪い男ではない、ただ、世の人との交際の術を全然持ち合せていないのだ――と、私は思っていた。
 ――それが、茲二三ヶ月、いくら手紙を出しても、いくら安否を問うても、まるで梨の礫であった。
 私は、不安になって来た、いままでが、私の手紙に対して几帳面な黒住だっただけに、何かしら黒い翳を感ずるのである。(一体、どうしたのだろう……)

 ――でも、十年も二十年もの間には随分同じ人に逢うのじゃないのですか。
 ――或はそうかも知れません、然しあの人はこの前何処何処で見た人だ、と偲い出す事が出来ましょうか、……けれどこれが片田舎などで、人の尠いところでは一週間も滞在すれば見知りの顔が幾くつも出来ることを考えると、これは都会というものの持つ恐怖だということが出来ますね。
 ――では、私があなたと(あなたも毎日のようにここに来られるようですが)繁々と逢うというのは、何か特別なワケがあるんですかネ。
 ――ええ、そうです。私はあなたに感謝しているのです。街に道に充ち溢れた見知らぬ顔の中に、期せずして毎日あなたと逢うということは、非常に心強く思えるのです。
 原は、そういって莨を出すと無理に洋次郎に奨めるのであった。
 ――あなたは友人を訪れた時、若しその友人が不幸にして不在であった、としたら、非常にガッカリした、空虚な気持になるだろうと思います。心弱い私には、この見知らぬ顔に取巻かれた気持が、堪えられないのです。
 洋次郎は燐寸をとって、パッと擦った。原はそれを見ながら、突然、
 ――ところが、僕はその気持が大好なんで、
 ――?