蘭郁二郎その3

「おやっ? 彼奴」
 村田が、ひょっと挙げた眼に、奥のボックスで相当御機嫌らしい男の横顔が、どろんと澱んだタバコの煙りの向うに映った――、と同時に
(彼奴はたしか……)
 と、思い出したのである。
「君、あの一番奥のボックスの男にね、喜村さんじゃありませんか、って聞いて来てくれないか、――もしそうだったらここに村田がいるっていってね」
「あら、ご存じなの……」
「うん、たしか喜村に違いないと思うんだが……」
「じゃ聞いて来たげるわ」
 ハルミが、べっとりと唇紅のついた吸いかけの光を置いて、立って行った。
 と、すぐに、聞きに行ったハルミよりも先きに、相当廻っているらしい足を踏みしめながら、近づいて来たのは、矢ッ張り中学時代の級友喜村謙助に違いなかった。
「おう、村田か、しばらくだったな」

 下り一〇五列車は、黒く澱んだ夜の空気を引裂き、眠った風景を地軸から揺り動かして、驀進して行った。
『いやな晩じゃねェか……』
(変ったことでも起らなければいいが)
 というのを口の中で噛潰した、機関手の源吉は、誰にいうともなく、あたりを見廻した。
『うん……』
 助手の久吉も、懶気に、さっきから、ひくひくと動く気圧計の、油じみた硝子管を見詰めながら、咽喉を鳴らした。
 夜汽車は、単調な響に乗って、滑っている。
 源吉は、もう今の呟きを忘れたように、右手でブレーキバルブを握ったまま、半身を乗出すように虚黒な前方を、注視していた。
 時々、ヘッドライトに照された羽虫の群が、窓外に金粉のように散るほか、何んの変った様子もなかった。
 列車は、せり出すように前進して行った。これは、下り坂にかかった証拠だ。
 源吉は、少しずつブレーキを廻すと、眼を二三度ぱちぱちさせ、改めて、前方に注意を払った。
 行く手には、岬のように出張った山の鼻が、真黒い衝立となって立ち閉がり、その仰向いて望む凸凹な山の脊には、たった一つ、褪朱色の火星が、チカチカと引ッ掛っていた。

 奥伊豆――と呼ばれているこのあたりは、東京からいって、地理的にはほんの僅かな距離にあるのに、まるで別天地といってもよいほど、南国のような、澄み切った紺碧の空と、そして暖かい光線に充ち満ちていた。
 こんもりと円やかに波うっている豊かな土地は、何かしらこの私にさえ希望を持たせてくれるような気がしてならない。
 私は眼を上げて、生々しい空気を吸いこんだ。この、塵一つ浮いていない大気の中で、思う存分に荒々しく呼吸をし、手を振りまわして見たいような気がした。
 病後を、この奥伊豆に養いに来た私は、体温表の熱も、どうやらサインカーヴに落着いて来たし、それに何よりも『希望』というものを持つようになって来たことが、偉大な収穫であった。
 土埃りの、どんよりと濁った層を通してのみ太陽を見、そして都会特有のねっとりとした羊羹色の夜空を悪んでいた私には、ここに移って来ると共に、南国の空とはこんなにも蒼いものであるか、と半ばあきれてしまった位であり、其処に飛ぶ、純潔な綿雲に、健康な幻想を覚えるからであった。